釣られた魚

「なーなみ、任務終わった?」
「……終わりました」
帳が解除された先には、もはや見慣れてしまった五条が立っている。その斜め後ろに控える補助監督は顔の前で両手を合わせていて、五条に無理を通させられただろう経緯が見て取れた。特級呪術師とは、もしかして暇なのだろうか。
「ところで、五条さんはどうして此処にいるんですか?」
「七海とデートしたいなって思って」
「は?」
視界の端に補助監督が目を剥いている姿が映ったが、七海の驚きはその程度のものではない。文字通りの絶句をした。
思考とともに体も停止させた七海の左手を取って、五条は強引に車の元まで歩かせる。隙を見て撒けないかと思い巡らすも既に遅く、七海は車内に押し込まれ、五条はその長い脚を存分に使って反対側のドアから乗り込んだ後だった。
「ちょっと早いけど、ご飯行かない?」
「またそれですか……」
若干どころでなく、七海はうんざりとした気分になる。何度となく誘われてその都度断って、しかも婉曲的でない断り文句も度々口にしている。それなのに、この諦めの悪さはどういうことか。
車内の空気がにわかに張り詰め、運転席に収まる補助監督は息苦しい思いをしていることだろう。彼は先日、憧れの詰まった口調で五条のことを語っていたが、こうも破天荒な振る舞いばかり見ていたら幻滅するかもしれない。しかしそれは七海の知ったことではない。
「今日はどこ行く? 僕のオススメはね、夜景のきれいな三つ星フレンチかな」
「この格好で行けるわけないでしょう」
怪我こそしていないが、祓除を終えた七海は土埃にまみれている。廃屋に侵入したり下水道を進んだりしたときよりは遥かにマシな姿だが、星付きのレストランからは入店を渋られそうな格好になっていた。それはいつもの仕事着を身につける五条にも言えることだ。
「そもそも、アナタと二人で食事に行った覚えがありません」
二人きり、もしくは気心知れた家入や伊地知しかいない場なら気に留めない五条の軽口だが、今は違う。言い触らされる可能性は低くとも用心するに越したことはない。誤解されないようにきっちり訂正すると、五条は大仰に両手を挙げて降参の意を示した。
「一仕事して疲れたらさ、ご飯用意するの面倒でしょ? 外で食べて楽させたげようって先輩の気遣いだよ」
「……自宅のほうが落ち着くので遠慮します」
説明されれば成る程と思える理由だが、何せ発言者はあの五条だ。思い付くままに出鱈目を言っている可能性も捨てきれなくて、七海は感謝の言葉を保留することにした。ありがた迷惑なことに変わりはない。
「なになに、自炊派? 何作るの?」
「今日は適当に買って帰ります」
「えー僕も一緒に買い物したい! 家にも行ってみたい!」
「すみません、五条さんは高専にでも落としてきてください」
五条がまた賑やかになる前に、七海は顔を俯かせて緩く目を瞑った。仮眠を取る素振りを見せると、五条のウザ絡みは嘘のようにピタリと止まる。高専時代ならそれでもちょっかいを出そうとしただろうから、これも成長の証なのだろうか。
「……お疲れのようですね」
七海を気遣った、低く小さい声が運転席から聞こえる。
「そうだね、今日の相手は特に相性悪そうだったから」
応じる五条の声も、弾んではいるものの、先程よりもずっと小さくなっている。それきり二人の会話は途切れ、心地良い静寂の中、七海の意識はゆっくりと沈んでいった。

◆ ◆ ◆

「お、奇遇だね。お疲れサマ」
「お疲れ様です」
任務前の空き時間、高専の待合室に詰めていると右手を上げた五条が入ってきた。挨拶までされては気付かない振りも出来ず、七海は軽い会釈をして返す。
大股で近付いてきて躊躇なく対面に腰掛ける五条を前にしても、七海は、読みかけの新聞を放棄することはなかった。下手に相手をする構えを見せると、五条のウザ絡みは一層鬱陶しくなるというのが七海の経験則だ。もっとも、無視を貫いてもウザ絡みをしてくることに変わりはない。
「今日はこれから任務?」
「近場で一件、入ってます」
五条が珍しく淡々と聞いてくるから、七海も同じトーンで返す。新聞の経済欄の内容もすんなりと頭に入れられていた。
「近場ねぇ。なら終わるのは夕方くらいかな」
「そうですね、早くても昼過ぎまではかかると思います」
足を組み替えて、上に乗せた左膝に頬杖をついて顎を支えて、唇を揉み込む。真顔で無言を保つ五条が何を思案しているのか、七海には朧気ながら察しがついた。出切れば当たってほしくない内容だが。
「昼は途中で食べる?」
「そうなると思います」
「そっか」
呟いたきり、五条はスマホを取り出して、七海との会話を打ち切る。俯きがちな横顔は退屈そうで、けれどその唇は引き結ばれたままで、待合室には静けさが戻ってきた。五条が入室する前と同じ静寂だ。
予想が外れて拍子抜けした七海は、思わず、人形のような横顔を見詰めた。普段から他人の視線に晒され慣れている五条は、熱を感じられそうな七海の視線にも気付かない。
「……五条さんは、これから任務ですか?」
「そ、夕方から。日帰りできないかもってとこ」
「やんなっちゃうよね」と愚痴を零す五条は、依然としてスマホから顔を上げない。任務の資料でも見ているのだろうか。
「どういった任務なんですか」
ツと、五条が顔を上げた。七海をじっと見つめて、何故そんなことを尋ねたのか、きっと七海の真意を探っているのだろう。
七海としては特に意味もない行動だった。ただ、何となく、五条との会話が終わってほしくなくて、深く考えることなく出た言葉だ。けれど、それを正直に口にしても、五条は信じてくれないだろう。
「……よくある任務だよ。別に僕じゃなくても良いけど、僕のが安全だろうねってくらいの相手」
「そうですか」
「おい、もっと興味持てよ。話膨らませようとしろよ」
「聞いてきたのオマエだろ」と、五条は不満を隠しもしない声で文句を言った。五条の手にスマホは握られておらず、二人の間にあるローテーブルの上に伏せられている。五条の意識がすっかりと自分に移ったのを確信して、七海は気付かれないように口元を緩めた。

◆ ◆ ◆

「……はい、報告書は明日までに、失礼します」
「仕事熱心だねぇ」
プツリと通話が切れる音と同時に、七海の左肩に重石が載せられた。重石こと左腕を乗せてきた五条は七海の呆れた様子も意に介さず、肩越しにスマホを覗き込もうとしてくる。五条の好奇心に満ちた視線から、七海は素早くスマホを庇った。
「もしかして彼女?」
その素早さが余計に好奇心を煽ったようで、五条はウキウキとした声で聞いてくる。
「違います」
「じゃあ仕事の電話か。オツカレー」
「その二択、どうかと思いますよ」
七海が強めに溜息を吐けば、五条は「めーんご」と飛んでいきそうなほど軽い言葉とともにパッと離れた。両手を顔の横に挙げてハンズアップのサインを出しているが、口元はニヤニヤと弓形になって、謝罪の意思は少しも感じられない。新しいオモチャを見つけたというような表情だ。
「カタブツの七海クンに春が来たと思ったんだけどなぁ」
「呪術師をしている限り、縁遠い話ですね」
「世の術師は皆童貞だって? 失礼なこと言ってくれるね」
「そんなことは言ってません」
誰がどう聞いても失礼なことを言っているのは五条のほうだ。そんな軽口を叩く張本人は、御三家の務めとして情緒もへったくれもないものを経験済みらしいが。
「ところで七海クン。今日の任務は?」
「……終わりました」
「おっイイネ! じゃ、ちょっと遅い昼飯でも行く?」
きっと、五条は断られることを前提にしている。そうして、断らせることでウザ絡みする算段をつけていることにイラついて、ついでにその余裕を引っ剥がしてやりたい悪戯心も湧いてきた。
五条はどんな反応をするのか。最初は驚くだろうけど、その後は面白がるのか狼狽えるのか、ついつい興味を感じてしまった。
「そうですね。どこに行きますか?」
「えっ!」
五条の反応は予想以上だった。弾かれたように一歩後ずさり、その距離を保ったまま、七海の頭の天辺から爪先までジロジロと不躾に見つめてくる。まるで目の前の人間が七海本人なのか、疑っているような素振りだ。
「……そんなに驚くことですか」
「え、だってオマエ、今までの塩対応どこやったの」
「急にデレるじゃん」などと言われても、七海には、デレたつもりはこれっぽっちもない。ただ、好奇心に素直に従った結果でしかなかった。
「デレるにしてももっと段階ってモンがあるだろ」
「はぁ……」
五条の言いたいことは理解できるが納得できなくて、七海の返事は何とも曖昧なものになった。

「良いとこだね。七海に頼んでせいかーい!」
「次はアナタが決めてください」
五条から誘ったというのに、当の言い出しっぺは行き先の候補を決めていなかったらしい。お陰で、七海は口コミサイトとにらめっこをする羽目になった。
五条は嫌いなものも食べられないものもなく、リクエストは「デザートがいっぱいあるところ」だけで、七海の店探しは難航した。漸く探し出せた喫茶店は、五条もお気に召したらしい。もっとも、文句を言われたらその場で解散となっていただろうが。
「お、ここパフェがある!」
「デザートは後にしてください」
席に着いて、早速メニューの後ろから捲る五条を窘めて、七海もメニューを手に取る。五条のリクエストが主軸ではあるが、七海としても、この喫茶店のパンの種類の豊富さに目をつけていたのだ。
「そういえば」
話し掛けられて顔を上げるも、五条の視線も注意も、依然としてメニューに向けられている。デザートの一覧から移動して、今は軽食のページを見ているようだ。五条に倣って、七海も再びメニューに視線を落とす。
「この頃、呪霊の等級をミスって怪我するの、増えてるみたいでさ」
「それ、世間話で済ませていい話じゃないと思いますが」
とても雑談として聞き流せない内容に、七海の視線はまたもや五条に据えられた。先を促す七海の視線が煩かったのか、五条は肩を竦めて顔を上げる。
「残念だけど、よくある話だからね」
「……それは、そうですけど」
「な。でも、オマエは厄介がられてるとこあるから」
誰のせいだ、と七海は片眉を上げた。こうして五条と親しげにしていることも、規定派から疎ましがられる一因となっているだろう。五条の誘いを断りきれない理由について、七海は考えることを保留としているが。
「気を付けなねって、心優しいセンパイからの忠告だよ」
にっこりと笑うその表情は、「心優しいセンパイ」にはとても見えない。その真意を尋ねようとしたとき、二人の席に料理が運ばれてきた。五条がわかりやすく顔を輝かせる。
食べ始めた五条に促されるようにして、七海も手を合わせる。けれど七海の食指は動かず、味の記憶も曖昧なものとなってしまった。

◆ ◆ ◆

「よー七海、お土産いる?」
「甘いもの以外があるなら頂きます」
高専で遭遇した五条は、見慣れたものもそうでないものも、様々な紙袋をその手に引っ提げていた。銘菓と印刷されているものは、おそらく五条が自分用に買った甘味だろう。
「甘くないのは全部硝子にあげちゃったからなぁ」
「甘くないものも買ってたんですか」
珍しいと言外に告げれば、五条は顔の前でパタパタと手を横に振った。
「いや、貰いものとかさ。どうせ硝子に横流しするんだけど」
「あぁ……」
五条の言う貰いものには、七海も覚えがある。
地方行脚をすると、大概はその土地の有力者である依頼主からもてなされ、手土産を渡される。不意打ちで見合いになったりもする。等級の高い術師と良い関係・・・・を結びたいという下心から為されるそれらは、五条の場合は回数も金額も桁違いなのだろう。
手土産に危険物がないか、自身の判断を信用しきれない七海は一律に断ることにしていた。騙し討ちのように強引に渡されたときは、これも一律に、高専に預けて判断を仰ぐことにしている。その振る舞いも、七海に柵が少ないから出来ることなのかもしれない。
「あ、じゃあ代わりにこれから飯行かない?」
「店選びはアナタがしてくださいよ」
「オッケー、うまーい店に連れてってやるよ」
「……ドレスコードのある店はやめてください」
五条悟が太鼓判を押す店のグレードは如何ほどのものか。とりあえず、七海としては普段着で入れる店であってほしかった。
五条はスマホを取り出し、早速、目星の店を検索しているようだ。
「ダイジョーブ! 硝子も気に入ったとこだから酒も揃ってるし」
「家入さんとは、よく飲みに行かれるんですか」
「んや、お互いに忙しいし、そんなにかな……」
会話が途切れたそのとき、閃いたというように、弾かれたような勢いで五条が顔を上げた。
「ナニ、硝子も呼ぶ? 歓迎会やる?」
「やりません。いつまで引き摺るんですか、それ」
「オマエがそこまで嫌がるの珍しくて、つい」
「最低ですね」
嫌味ったらしく蟀谷を押さえて見せても、当の五条は、既にスマホの画面に意識を向けている。自由という言葉を体現したかのような振る舞いに、ポーズのはずの頭痛が現実になった気がした。
「あーそうだ、これこれ」
ズイと突き出されたスマホの画面には、酒瓶がこれでもかと並べられたカウンターが表示されていた。多種多様な酒瓶の画像を顔として掲げるその店は、確かに家入が好みそうな雰囲気だ。五条一人では辿りつかなさそうな店ともいえる。
「ここのプリン、昔ながらの硬めプリンでカラメルソースたっぷりで美味しいんだよ。あとはアイスもオススメ」
「せめて料理についても触れてください」
「……料理はね、えーと、硝子は確か……焼き鳥美味しいって言ってたな」
主菜をすっ飛ばしてプレゼンを始めた五条を制止すると、途端にその言葉はあやふやなものになった。甘いもの以外にも興味を持って食事をしてほしい。
「あ、卵焼きは僕が作ったやつのが美味しいって。硝子のお墨付き」
顔の横にピースサインを添える五条は、心做しか胸を張っているように見える。その得意満面な笑顔を、七海はうっかりと可愛いと思ってしまった。
気の迷いにしておきたい心情だったが、掻き消える気配がない。そこで漸く七海は、復帰後からこちら、胸の奥深くで着々と育っていた五条への想いを、認めてしまうことにした。ひとはそれを諦めとも言う。